平野啓一郎の「ある男」を読んで

普段はあまり読書感想のブログなど書かないのだけれど、「ある男」を通じて最近ずっと感じていた2週間前の息子誕生以降、定期的に肉体的な意味での死を求める気持ちの正体に気が付けたのと、こういうブログを書くと編集の佐渡島くんが積極的にTwitterで発信してくれたりするので、そんなことがあったらいいなって思ったりしてブログを書きたくなった。

「ある男」とは関係ないが、本著の編集に携わっている佐渡島傭兵くん(同い年の面識ある友達なので君付けしてます)は優れた作家であり編集者である。必然的に彼の言葉に魅せられたファンは少なからず存在しており、そうしたファンは佐渡島くんと絡むきっかけを作りたくて彼のかかわった作品の感想をSNSで発信するという効果が生まれているのではないかと文章の書き始めに思った。私も元々は友人であったが、今はどちらかというとそのファンの一人である。

平野啓一郎の「私とはなにか」という本の中で唱えられている「分人主義」という考え方には30台後半で悩みが多かった時期に多いに救われた。「分人主義」の詳細は割愛するが、私自身の体験で言えば、何もかもがうまくいかないと感じている時期に自分自身を否定することなく、希望をもち進むべき方向を照らしてくれたのがこの「分人主義」だったし、自分の嫌いな自分自身のある性質(非常に短気で相手を一方的に追い詰める所がある)について、深く考え発現するシチュエーションを特定し克服するための第一歩を教えてくれたものであった。

「ある男」の中で登場人物たちは様々な運命に出会う、それはすべて肉体的な意味での死が身近にあることによっておこる運命である。その運命に抗うためにそれぞれがそれぞれのやり方で社会での在り方を変えていく、旧姓に戻ったり、戸籍を交換したり。

これは身近な肉体的な意味での死を乗り越えるために彼らは一様に社会的な意味での死というか転生を選び、新たな人生を望んではないのかと思った。

つい最近子供が生まれたのだが、生まれた日の夜から心のどこかで、ここで死んでしまうのもよい人生なのではないかという思いにとらわれていた。なぜか自分でもよくわからないが、最も身近な命の誕生が私に死を身近なものに変えていた。同時に突然思い立ってビジネスネームを変更した。改名である。

自分の中ではそれらはつながりのない独立した行為、感情であったが実はそれらはすべて繋がっているのでないか。息子の誕生により、父親という新たな自分が生まれ、それまでの社会的な身分が死んだことで、無意識に完全に新しい人生を歩みたいという思いがありそれが起因となり無意識に肉体的な意味での死を望み、名前というそれまでの社会的人格の象徴たるものを変えたいという思いに至ったのではないかと思う。

ある男、を読んでいる途中で頭をよぎっていたのはバーチャルVtuberに代表されるVR空間での別人格である。今年の夏にはバ美肉という言葉でおじさんが美少女のVtuberになるのが流行っていたが理由はわからないが、多くの人に転生の願望があるということだろうか。